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むこう


 朝から、空には真っ黒い雲が広がっていた。
 「もう1周間もこんな天気だねぇ。洗濯物が乾きやしないよ」
 愚痴る母親の横で、少年は籠に半分ぐらいの量しかない服を引っ張り出し、端を持って地面に向かって打ちつけた。小気味の良い音を立てて服が広がると、少年はそれを母親に手渡した。ついでに副の端っこがあたっていがんだゴーグルをきちんと頭に填めなおす。使いこまれてところどころ擦り切れているものだ。
 「結局一度も海に行って泳げなかったねぇ」
 なにがあるでもなく、その様子を見ながら母親が申し訳なさそうに言った。
 「うん」
 答える声は少し高い。それは気持ちが昂っているわけではなく、ただ単にまだ若いだけである。当然、まだ親元を離れてすごすにはいささか早い。
 続けて少年は衣服をしっかりと引っ張り広げる作業に入った。その視界の隅に黒ずんだ木枠にはまった写真立てがうつる。そこには今より幾分若い女性と、見えなくなるまで眼を細めて笑っている幼児、つまり少年自身と、青年と中年の合間に差し掛かった男性とが、満面の笑みを浮かべて写っていた。そしてまた、男性の首もとには黒ぶちに革のベルトのゴーグルが無造作に掛けられていた。
 そのゴーグルはまさにその写真の手前においてある。平面ではなく、立体の実物である。
 少年の記憶の中で、父親は、いまも写真の姿で残っている。脳裏に浮かぶのは写真の様に優しく豪快に笑う姿と。記憶の中で更新されるのは、父親の出掛けに置いていったハンターズギルド発行のハンター認定証がほこりを被る様と、年々古びて行く棚の上のゴーグルばかり。

 「俺は、人間の未来にかける!」
 敢然とした決意の叫びとともに、白銀の刃に五色の光が宿った。煌く切っ先が過ぎし日の墜とし者に照準をあわせる。
 細い、微かに赤みを帯びている、彼の指先が、紅の握り柄をしっかりと掴んだ。
 金属製のブーツが冷たく黒くかたい床をけり、勇者は跳んだ。
 闇夜を駆ける流星が、宇宙空間から大気圏に突入する時、煌々と輝くが如く。
 「アーク!!」
 誰だろう、エルクか、トッシュかの悲鳴にちかい叫びが、剣と闇の支配者の交わる瞬間に響いた。
 五大聖霊の司る光をすべて受けた刀身から、真っ直ぐ、五色の光が同時に、闇の支配者に向かって伸びる。
 やがて光が集まり、輝く白色となり、その白い光線が幅を広げ、鏡の魔全体を照らし出した。すべてを浄化する白色光の中に、紅い鉢巻を靡かせた勇者と、豊かな紫の髪持つ聖母の姿とが浮かび上がった。
 「……うぅむ……」
 老翁の小さな呻き声は、空中城崩壊の轟音に、忽ちのうちに掻き消された。

 「空中城が!」
 「墜ちるぞ――ッ!」
 「風向きからして南東方向に倒れそうだ!」
 「ロマリア市街南東の住民をはやく東非常口へ移動させろ!」
 「ハンター諸君に協力を要請する!」
 「防壁突破の指揮をとってくれ! 壁を破壊して市民を外へ出すんだッ!」
 口々に、もしくはメガホンで、ダニー達はロマリア市街の屋根の上から叫んだ。
 なんとか垂直を保っていた空中城が大きく傾き、高度がどんどん下がって地面に直撃する、その時までダニーはかわら屋根にかじりついていた。
 衝突の瞬間、彼は悠に10cm跳びあがったが、それでも手にしていたメガホンを取り落としただけで、自分も敷石に頭突きすることは免れた。
 肉声だけではとても指示を与えられないから、そこで空中城の異変に気付いてから初めてダニーは地面に降り立った。夜の最中だというに再び紅く浮き出しにされた世界の中心をかえりみていると、口から自然と一文が転がり出てきた。 
 「トッシュさん達は……あの中なんだよな……」

 火の手が空中城の落下地点からロマリア市街全体に広がった時、既に市街へ脱出していたものと、ロマリア市内に残っていたものは、割合にして2:1ほどだった。街ではダニーを首謀者とするレジスタンスメンバーと、ハンターが共同して消火・救助作業にあたっていた。
 揺らめく大きな影の裏を、小さな影が通りぬけて行った。
 親が安全地帯に移動し、子が中心武に残っている、もしくはその反対の家族があった。
 この少年は、前者であった。
 逃げ惑ううち大人とぶつかり、跳ね飛ばされて起こしてもらったものの、今まで必死に追いすがってきた母親の姿はどこにもなかった。短く刈った黒髪は、派いと煙に薄汚れ、紅く火照った顔面も、擦り傷切り傷打ち身に溢れ、ところどころから血も流れている。ズボンは擦り切れ、茶に濁ってもとの色を窺い知ることはできない。右と左の一体どちらが出入り口に近いのかもわからなかったが、ずっと火の中で立ち止まっていれば時をまたずに炎に焼かれる事は、もちろん彼にも分かっていたので、次はこっちに行ってみようと方向を変えて走り出した時、不意に足が力はなれた/腰に掛かった太い手が、少年を高々と持ち上げたのだ。
 「こんな所にまだ人がいたのか」
 その人はそう呟くと、ふぅと息を吐き、少年に向かって笑いかけた。
 「もう大丈夫だ。俺はハンター、お前さんのように逃げ遅れた人達を先導するのが役目さ。この街の外へ運んでやるよ」
 そう言って、ハンターはしゃがみこみ、少年に背を向けた。乗れと言っているらしい。少年は素直にその背におさまった。
 ハンターは疾り出した。人の背中に乗っての移動など、少年には初めての経験だった。
 炎に焦がされまいとハンターの背で縮こまっていた少年は、おそるおそる顔を上げた。
 ――熱く、ない――
 そう認識した時、少年はハンターが炎の熱気を一手に受け止めてくれていることを知った。
 ――凄い――
 心から感動して、すべての恐怖を忘れた時には、赤黒い光は横ではなく後ろから2人を照らしていた。防壁にあけられた巨大な孔の向こうから。
 不意に、ハンターが立ち止まった。ゆっくり腰を折る。自然と少年はハンターの背から地面へ押し出された。
 「歩けるか」
 訊かれて少年は理解した。このハンターの仕事は終わっていない。街の中にはまだまだ力を欲している所が在る。たった11歳やそこらの自分は彼の邪魔者でしかないのだと。
 「うん」
 小さく、だが、できり限り強く答えて少年は地面に両の足でしっかり立った。
 ハンターの前には、木造の車が、一台、停まっていた。本来なら穀物やら肥料やらを入れた麻袋をいっぱいに満たしているに台には、何人かの大人が座っていた。一様に真っ黒の顔をして、何事かを囁きあっている。
 不気味だった。
 怖かった。
 これから数時間、もしかすると何日も、いっしょにいなければならならないことを考えると、少年の気は重くなった。
 「安全な所につれてってくれる」
 ハンターはそういったが、少年にはその移動用車両がこの上もなく危険なものに見えた。
 「ちゃんと生きのびろよ」
 言いながら、彼は厚い掌を少年の頭に乗せてにかっと笑った。
 「あ、あのねっ……」そのままさろうとするハンターを、少年は慌てて呼びとめた。「ありがとうございましたっ……。えと、それと」
 言おうかいわまいか、迷った様子の少年に焦れた様子もなく、相手はゆっくり向き直って待った。次の言葉が出てくるのを。
 「どうしたら……お兄さんみたいなひとになれますかっ?」
 「おいおい、よしてくれ」言いながら、ハンターは掌をひらひらさせた。「そんなに出来た人間じゃない」
 「そんな事ないです、凄いです。ハンターになったらお兄さんみたいになれますかッ?」
 大柄と言って良いハンターを見上げて訪ねる少年の脳裏に写真の中の父親が浮かんだ。彼は、彼も、ハンターだった。ハンターの仕事で、悪いヤツを捕まえろと命令がでたと言って、いなくなってしまったのだ。少年の中で父親は英雄だった。模範とすべき人だった。目標と言って良かった。それはやがてハンターという職業に就くことの強い願望に変わっていった。写真の中で笑いかけてくる『父親』を見るたびに、少年が持つハンターという職への憧れは膨らんだ。
 そして今、父親と同じ世界に居る人物に命を助けてもらったのだ。
 ハンターになりたい。
 その気持ちに、ついに火がついた。ここでこのハンターをむざむざ行かせてしまうと、途端に『ハンター』が自分から離れてしまうように思えた。
 「ハンターになりたい、絶対なる」
 相手の男性はしばし無言で向き合っている少年を見つめて居た。こちらを真っ直ぐに見つめ返す漆黒の瞳が少年の言葉が、今、この瞬間にうまれたものでないことを語っていた。
 「ハンターか」
 相手は呟くようにいった。笑い飛ばしも、中傷の言葉を吐くこともせずに、口を閉めて唇の端を持ち上げる。
 「うん、やってみな」
 それから少し頭を掻き、脇に差していた2本の剣のうち、細く軽い方を選んで少年の前に掲げた。突然の事に少年が吃驚していると、ハンターはさらに剣を少年のほうに寄せた。
 「ハンターには力が要るぞ、使え」
 少年は手を出し、一振りの剣を受け取った。重みが一気に自分に掛かる。少年は強く言いきった。
 「がんばる」
 少年の声を聞いてから、ハンターは力強く頷き、馬車の御者に声をかけた。
 「行ってくれ」
 少年が手をいっぱいに広げても足らないぐらい大きな車輪が、つっかえつっかえ、やがて、滞りなく廻り出す。少年とハンターの身体の距離が離れて行く。運命の糸が、次第に長くなって行く。切れることのない、絆という名の糸が。
 折り重なって生えた木々の陰になってハンターが見えなくなると、少年はふぅ、と、息を吐いた。それから、くるっと向きを変えてくぐもった声で絶え間なく話す大人の方を見たが、知人は居なかった。
 「やっぱりさ……の大…害……」
 今まで耳に届かなかった声が、初めは小さく、段々はっきり聞こえるようになってきた。
 「あの極悪……名手配……アークがやったのかねぇ」
 聞き覚えのある名だった。たしか一年くらい前、スメリアの王様を殺した奴。
 「何だか不思議な呪術を使うって言うし……スメリア王だけでは飽き足らず、今度はロマーリア王を暗殺して、証拠隠滅のために城ごと落っことしたってことだって考えられる」
 「どうでも良いけど一般人を巻き込むのはやめてほしいわな」
 「殺人犯から見れば人間なんてすぐに殺せる虫けら程度にしか思ってないってことじゃないか?」
 そんな話を聞いているうちに、少年には本当にアークが誰でも良いから殺そうとしたように思えてきて、慌てて頭を振った。いくら前科のある人でも推測だけで人を疑うのは良くない。そんな気がした。
 「……どこ、行こう」
 誰にともなく少年は呟いた。紅に染まる黒い空を見上げると、白光が二筋、まじわいつつ消えるのが見えた。それはとても優しく、力強く、そしてなぜか悲しい色をしていた。

 少年達を乗せた荷車は大陸の東端についた。そこで少年は他の大人達と同じように黒い波たつ海岸に、ひょいと一人降ろされた。本来空港があったところだった。記憶では空港のロビーから海が見えていたはずだが、今では、すぐそこが海である。
 そこには何百人もの人々が犇めき合って大きなうねりを作っていた。
 「クズ鉄の街も壊滅した。これでロマリア大陸にある主要な街は全滅したことになる」
 不意に言葉が飛び込んできた。
 「他大陸に渡らん事にはどうしようもないってことか」
 「だな。やはりグレイシーヌがかたいか……」
 「隣の大陸にある国のことか」
 「そうだ、あそこの山には寺があり、屈強の戦士が集うというから護りもばっちり、食料も恵んでもらえる。ロマリア大陸の端は海の中だが、山の上なら洪水や津波の毒牙も及んじゃいない筈だ」
 「寺ならフォーレスにもなかったか? すべての人々を救済するっていう。ありゃあ完全に山の中だぜ」
 「アルディア地方って手もあるな。プロディアスはロマリアの次に発展してた」
 「だが、あそこは海の近く。水の下に埋もれてる可能性の方が高いぜ」
 「スメリアは島国だから絶望的だなぁ」
 「元々アークにやられて国そのものが滅亡寸前だったじゃねぇか」
 「ああ、ロマリアが内陸地ならなぁ。どこへ行くにも海を渡らなきゃならん」
 「飛行船は残っちゃいねぇのか? プリンツ・ロマリアなら100人ぐらい乗ったんじゃねぇか?」
 「あんなもの、城といっしょにおじゃんだよ。皇子の誕生祝いに造られたんだろう、城の奥ふかくにしまいこんだって」
 2人の会話を聞きながら、少年はじぃと対岸の方を見ていた。眼で見る限り、向こう岸までの距離は40〜50km、風向き次第では急増の小舟でも十分渡れそうだった。
 少年の背後には、空港からロマリア市街に向かって延びる国道沿いに植えられた果樹園が広がっていたが、そろそろ収穫も終わる時期、樹上に残る果物の量もたかが知れている。何処かでは奪い合いも始まったようだった。
 「……早く、この大陸から出たいな。グレイシーヌでちゃんとご飯食べたいや」
 呟きながら、少年は海岸に歩み寄った。そこには高波に運ばれたらしき小舟の残骸が転がっていた。
 何人かの人々の間で、少年は傷みのすくなさそうな小さな舟を見つけた。木製で、どうも誰かの釣り舟のようだった。
 船を波打ち際から引き上げ様と陸側の縁に手を掛け引っ張ろうとした時、後ろから声が掛かった。
 「それは使えん」
 少年の手が弾けるように船べりから離れた。高鳴りをしだして苦しい胸を抑えつつ振り帰る。眼の前にいたのは少年とも青年ともつかぬ年上の男性だった。
 「フィーネル」
 そう、彼は名乗った。黒ずんだ紺の〈もとは眼の覚めるような青だったらしい〉布を無造作に額に巻き、茶と派居に濁ったシャツの袖をまくりあげ、刷りきれた水色のズボンと泥の跳ねた紐靴をはいていた。その腰には革で作られた小さな袋まで括りつけられていた。少年より6歳上、17歳だという。ロマリアに長年すんでいるとも言ったが、言葉使いやイントネーションから彼がロマリア以外の出身だと見当はついた。当然、ロマリア以外で暮らしたことのない少年にはそれ以上はわからない。
 「で、きみ、名前は?」
 フィーネルが尋ねた。
 「…………」
 答えようとした少年の口がかたまった。あけたまま、言葉が出ない。
 「あぁ、答えたくないならそれでもいいさ。テキトーに呼ぶ」
 そう言ってフィーネルは浜のガラクタに眼をやった。
 「動力のある舟じゃないとここらの海は渡れない。潮の流れが結構キツい。だから、動力付のがありがたい。ロマリア近辺の潮流に負けない舟だ」  「でも、きっと壊れてる」  先ほどの果樹が脳裏をよぎった。乱暴に実をもぎ取られ、叩き落され、枝の折れた姿。  「おいおい、そんな言い方は。ロマリアから出なきゃいけないことぐらい分かってるだろ」
 そう言いつつ、フィーネルは小舟の残骸を調べ出した。
 「これは……XL―900型内燃エンジンか。燃料タンクはほぼ無傷……使えそうだ」
 一抱えもある動力炉を手際良く舟から取り外したフィーネルは、浜辺の平たい岩の上にそれを置いた。
 「使えそうな船体を探してきてくれないか? できるだけ金属製で傷みの少ないヤツ」
 「え、僕が……え。う、うん……」
 少年は曖昧に返し、けれども、浜辺に向かって歩き出した。
 ふと海の向こうへ眼をやると、目指す大陸の方が微かに白んできていた。その方向へ、再びあの、二筋の光が飛び込んでいった。

 薄霞の中で、少年は目覚めた。いつもの通りベッドメーキングをしようとして、自分が土の上で寝ていたことに気付いた。一度寒さで身震いをしてから、不意に、昨晩の事を思い出した。空から墜落した空中城、町を襲った大火、ロマリア市街からの脱出、いつまでも続くと思われた荷車の中、青年との出会い。そして、2〜3隻の舟を厚め砂浜にあげた所で記憶は途切れていた。近くに見覚えのある舟の残骸があることから、それを海から引き上げたあと、寝てしまったらしかった。
 「霧が出てるからまだそんなに夜明けから時間は経ってない筈だけど、フィーネルさんはどこ行ったんだろ」
 上半身を起こして服に付いた砂を払おうとした時、右斜め後ろの方から罵声が飛んだ。
 「……青二才のクセにいきがるんじゃねぇッ!」
 フィーネルの声ではなかった。荒々しくかすれていて濁っていたし、何より、発音に違和感もない。
 急いで声のした方へ走ると、フィーネルと、もう一人、悠に190cmはありそうな巨漢が眼に入った。肩まで伸ばした長髪をすべて黄色に染め抜いて跳ねつけているのが筋肉質の身体に全く合っていない。紫の地に黄で書きなぐったシャツが長く白いコートの下から少しはみ出しているのも、2サイズぐらい大きいのか裾のところで五段腹のように畳んであるのも、お世辞でも恰好良いとは言えなかった。
 その悪趣味男はこれまた牛の鼻輪につかえそうなぐらい大きいイヤリングを朝の光にきらめかせつつフィーネルに歩み寄った。
 「お前のようなガキが舟に乗っても沈むだけだって忠告してやってんのによォ」
 「…………」
 対するフィーネルは口を噤み、腕組みをしたまま相手を睨んでいる。
 「それでいてまたエンジンを2つも持っているたァ、こりゃあもったいなすぎるとおもわねぇのかァ?」
 「連れも、いるから」
 そう答えたのだが。
 「どこにそんなのがいる、この贅沢者がっ!!」
 ついに巨大な拳がうねり、フィーネルの脇腹にめり込んだ。細いフィーネルが反動で吹っ飛ばされる。
 「フィーネルさんッ!」
 気付いた時にはそう叫び、少年は青年に駆け寄っていた。
 「だ、大丈夫ですか!?」
 足を放り出しているフィーネルと、必死に呼びかける少年を尻目に、暴漢は2つの動力を持ち上げ、1つを選んで取りあげた。
 「一人分だったよなぁ、あばよ!」
 と、言い置いて去って行く。
 「なんて人だっ……!」
 少年が小さなこぶしを握り締めた。
 「ああ、いい、いい。きにすんな」
 フィーネルの言葉には暗さもなければさきほどのダメージもない。
弾みをつけて立ち上がり、それから残されたほうの動力をたしかめて、やっぱな、と、呟いた。
 「あの筋肉バカが持って行ったんはサブの方だ。こっちのメインエンジンの喪失部を補うための。エネルギー量だけ見たんだろうな」
 「えっと……」少年もつられて立ち上がった。「あっちはつまり、要る部品を抜いた虫食いエンジンだってことですか?」
 「おう、スクリュー回すぐらいの力はあるだろけど冷却機能は全部メインの方に移したからなぁ。ま、すぐエンジンがオーバーヒート起こして止まるな」
 言いながらフィーネルは腕を伸ばし、横に転がっていたドライバをポケットに突っ込んでエンジンを抱えた。
 「で、どんなん見つかった?」

 「よっしゃ、できた」  陽が天高くのぼる頃、フィーネルははじめて手を休めた。彼の作品はなかなかの出来映えであった。フィーネルが手持ちの金槌で船体の所々にあったへこみをある程度まで平らにし、船尾に直したエンジンがちょこんと一つ座っている。舟の深さは約70cm、幅は2mで長さは7m。やはり釣り舟の風だったが、染料がはげて字が剥き出しになっていて、その奥は銀に光っていた。
 「上薬があらへんから塗装はでけへんけど、こっからあっちの陸までやったら十分もつやろ。海で魚獲ってから、焼いて食って出発やで」
 舟の中に縄やら木切れやらをつめていた少年は眼を上げ頷いた。肩の向こうには、誰かの作った、丸太に布をかぶせただけのテントが一つ、たっていた。

 お腹いっぱいになってから、少年は青年と協力して舟を海の上に運び入れた。
 乗り込む前に、少年はもう一度陸の方を見た。
 11年間そだった場所はほんの一晩で消滅した。自分の見知った町並みや友人、家族、もしかしたら昨晩まできちんといた筈のロマリアという国まで、既にこの世にない。知らない一個の物体であるロマリア大陸に未練はなかった。一瞬母親の顔が頭に浮かんだが、向こうも生きているなら、なおさら自分はここから去る必要があるように思えた。このままこの海辺にいては、すぐ野垂死んでしまう。
 船縁に足を描け、少年は一気に中へなだれ込んだ。それを認めたフィーネルが船尾の方から海の沖合いへ船を押し出した。そうして、フィーネルも船に飛びこんだ。小舟はいとも儚げにゆらゆら揺れたが、やがて、船体を持ちなおし、フィーネルの操るまま、始めはそろそろと、やがて走るように、海の上を進み出した。そのエンジンは、低く、一本調子で唸っている。
 2人と少し離れた海の上に、小さな舟と大きな影が浮かんでいた。

 海は穏やかだった。
 緩やかな曲線を描く水面、時々跳ねる青銀色の小魚、縁で少し休んでまた飛び立つ真っ白な鳥。黒くへらべったい東の大陸ははっきりと見えるし、ひとつがいの海鳥もゆっくり眼前にある海の上を飛んでいる。
 けれどもフィーネルの表情は晴れなかった。右手を舟の舵にかけたまま、海と目的地とを交互に見比べていた。
 「海流の向きが変わってんな」
 不意にフィーネルが呟いた。海の上を眺めていた少年が顔を上げる。
 「見える景色もどうもおかしい。昨日のアレでずいぶん地形が変わったんだろうな。グレイシーヌに行くって言ってたけど、どうなってるのやら」
 そこまでいって、フィーネルは、少年のこちらを見据える黒い瞳に気がついた。慌てて視線を逸らせて付け加える。
 「オカまで行けば町かなんかがあるはず。なんとかなるだろ」
 いいながらわざとらしく笑ってみたが、心中は不安でいっぱいだった。
 海辺に集落はあるか。よそ者の自分達は受け入れてもらえるか。稼ぎ口はあるか。いや、あの大陸に着けるかさえ危うい……!
 「ね、グレイシーヌってどこにあるの」
 少年が訊ねた。
 そのひとことで、フィーネルは現実に引き戻された。
 「知らないで目指してたのか。スメリア王国の西さ。年がら年中修行してるやつらがいるのは有名だな。で、またその修行がキツくてな、夜逃げとかするヤツ、続出らしいぞ」
 フィーネルは、無理矢理腕を大きく広げて見せた。その眼が、ふっ、と、遠くを見るように動く。だが、すぐ、少年に視線を戻した。
 「ところで何でグレイシーヌに?」」
 「あ、うん。剣の扱い方教えてもらいたくて」
 そう答えながら、小さな手で一振りの剣を持ち上げる。
 「ハンターの人に貰ったんだ。けどどうも使い方わかんないんだ」
 「遠いぞぉ」
 そう言って笑ったフィーネルの顔が、見る見るうちに凍りついた。
 その視線は少年の後ろ、船の穂先にあった。
 振り向いた少年は、ひっと短く叫んだ。それから急いでフィーネルのいる船尾に移動する。直す暇のなかった剣は握ったままだ。
 橙色の、緩やかにうねる物体。大きさは1mほど。不恰好なほど巨大な黒い瞳。
 「うしろへッ」
 言いながら自ら前に出て少年を背に庇う。
 「まさか……スライムボンバーが出るたぁっ……!」
 フィーネルの手が船底についた。けれども、それも一瞬で、次のときには立ち上がって足場を確保している。
 そうして腰に下がった袋に手を突っ込み、何かを取り出してきた。陽光に煌く銀の突起、黒ずんだ革を巻いた握り。それをフィーネルは急いで右手に填めこんだ。少年は名前こそわからなかったが、それが、武器であるらしいことは理解できた。
 「落ちてもええように板かなんか掴んどきや」
 早口で言うとともに、白色の武器が翻った。尖った棘が敵の右側面を抉り、スライムボンバーの肉片が僅かに飛び散った。怯んだのか一瞬相手が退く。それにフィーネルが追い討ちをかけるように再び右手を突き出した。しかし、こぶしが薙ぎ払ったのはただの空気だった。すかさずスライムボンバーが空に跳んだのである。巨大な体をゆする様に、すばやく。
 「よっしゃ! 空中なら絶対避けられへん!」
 フィーネルは嬉しそうに言い、落ちてくるスライムボンバーにタイミングをあわせて右手を力いっぱい叩きつけた。
 「海に帰れェっ!」
 「やった!」
 2人とも、命中の瞬間にめいめい言葉を発したのだが。
 強烈な一撃をまともに受けた敵は舟の外まで吹っ飛んだが、透明の職種を幾本も伸ばして舟にしがみついたのだ。そうしておいて自らの身体を頼りに、また、舟に舞い戻ってきたのである。
 「しっつけえやっちゃなあっ……!」
 フィーネルが僅かに唇の端をかんだ。
 「とっととこいつを追っ払って操縦にもどらなならんのにっ! ……しゃらくせぇっ!」
 やっと舟に戻ってきたスライムボンバーに、フィーネルは駆け寄った。それからそれに手を伸ばす。相手の下に直接手を入れて引き剥がし、舟の外へ捨てようという算段だ。ところが、短くうめいて足を止めた。魔物を睨む褐色の瞳が微かに揺らぐ。スライムボンバーが小刻みに身体を振るわせ始めたのだ。
 「分裂?!」
 叫ぶと同時に、フィーネルは再び、今度はもう少しはやく、移動しようとしたが、舟が不安定なので、それも侭ならない。
 焦るフィーネルをあざわらうかのように、スライムボンバーの眼が揺れた。ジェル状の肉体が横にのびる……かと思った次の瞬間には、敵の眼は2匹になっていた。
 始め、少年はそれが眼の錯覚に思えた。昨晩ほとんど睡眠をとっていなかったから、眼の疲れでぶれて見えているのだと思ったのだ。
 けれども、その、誤った認識は即刻訂正された。相手が、2つに分裂するだけでは満足できなかったのか、4匹、8匹、16匹とねずみ算方式で増殖し始めたからである。
 フィーネルの前進が停まった。
 そして、彼は、じりじりと後退しはじめた。
 小さな舟の持ち主は、もはや、スライムボンバーに変わっていた。舳先の方が少しずつ傾き、人間の載っている方が段々上がってきている。船底をころころと短い棒が走る。
 「……くそうっ……舟はあかんか……」
 小さくフィーネルが呟いた。それから、彼は、振り向かないまま口早に言った。
 「とりあえず浮きそうなもん持っててくれ。で、合図したらすぐ海ん中飛び込め!」
 「わ、わかった!」
 すぐに返ってきた返事に、微かに、フィーネルは頷いた。
 「……グレイシーヌは無理かな……」
 口の中で、少年は呟いた。
 眼の前で増殖を続けている敵はもちろん、正規の航路を外れている小舟も、目的地への到達が不可能に近いことを明確にあらわしていた。少年に正確な方角(北北東)がわかるはずがなかったが、後ろに延びる水脈と前方の景色で舟の進行方向がずれている事は理解できたのである。
 「……」
 無言のまま、少年は板切れと剣を握り締めた。

 そこから、記憶は途切れがちだ。

 合図があったあとも、フィーネルが舟に残ってスライムボンバーが海の中に避難した少年に襲いかからないよう奮闘していたのは見えた。
 やがて、舟が赤い炎に包まれたのは、フィーネルがスライムボンバーを一気に倒そうと火を放ったからだろう。炎が上がる直前、フィーネルが海に踊りこんだのも、波間からだったが、少年の眼に届いた。そのフィーネルが手ぶらなのも。

 フィーネルの姿を見たのはそれが最後だったように思う。

 青緑の水と、こげ茶の板っ切れだけが視界に映っていた。
 水面で跳ねる水玉は幾百幾千にも散って輝いた。
 それが水の中から見ているのでなければ、命がけの航海でなければ、そのような水の舞いはこの世のものとは思えぬほど綺麗で素晴らしいものだっただろう。
 小さい感動の一場面は、生と死の境目で体験したできごととともに、悪い記憶として少年の頭に残る事となる。

 「板と、剣だけは」
 そう言いながら、念じながら、少年は海の上を漂った。手足の感覚は早い時期になくなっていたし、始めはとめどめもなく流れていた涙も今では海水と見分けがつかなくなっていたが、波を書き分けフィーネルがあの妙な話方で励ましてくれるのを、または、大災害の夜助けてもらったハンターの想いがこもった剣が守護符として働いてくれるのを、思考の端で願いながら、いつ終わるとも知れぬ孤独と少年は戦いつづけた。他に助けてくれるかも知れぬ力を思う意外に、少年は、生き続ける意思を持つ方法を知らなかったのである。
 そして。
 気付いた時には、淡い翠色の草の上で息をついていたのだった。
 連綿と続く湿った路を一瞥してから、くさの上に思い切って仰向けになる。ずっとしっかり握っていた剣が、やっと右の手の平から離れて土の上に横たわる。
 低い大地から見上げる高い天空は、どこまでも青く澄み切っていた。そんな空を見ていたら、やっと生きているという実感が沸いてきて、少年は思わず、良かった、と、呟いた。
 夏の面影をわずかに残した太陽が、びしょぬれの身体に心地良かった。
 「ハンターにならなくちゃなぁ」
 寝転んだまま、少年は空へ向かって言ってみた。
 「なって、助けてくれたハンターさんにも、フィーネルさんにももう一度会って、元気だってトコ見せなきゃあ」
 しばらく空を眺めてから、少年は不意に起き上がった。同時に横においてあった剣も拾い上げる。
 「どっか人のいるトコ行かないと。……せめて、飲める水のあるところに」
 そう呟き、少年は歩き出した。海辺から、内陸部へ向かって。人々の通った後である、細い道を探して。



 「『大災害』は世界の多くのものを奪ったけれども、世界中の人々を復興という目標に向けて歩き出させるきっかけにもなった」

 「世界各国が一つになるべきかどうかはわからないけど、人の気持ちはきっと、一つになれる」

 「きっと……」